美濃のマムシ、梟雄、ギリワンなどと散々な言われ方をするが、いわゆる典型的な下克上武将である。 司馬遼太郎の小説『国盗り物語』の主人公などとして知られる。 明応3年(1494)生まれという説が強かったが、近年では永正元年(1504)生まれとする説も有力になってきており、その年齢は結構あいまいである。 最初は京都にある「妙覚寺」で僧侶をしていたが後に油商人となる。 彼は一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし穴から油がそれたら料金を貰わないという街頭パフォーマンスをしながら油を売って、富を蓄えた。 その後、寺院でのツテを辿り、長井長弘の家臣になることに成功する(あまりにも油売りのパフォーマンスが見事だったため、「そんなに器用ならどうせなら武士になればいいのに」と言われて一念発起したとか言われている)。まもなく、武芸と知略のいずれもにおいて優れた働きを見せて次第に頭角をあらわし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。 そして、家督相続で争った頼芸の兄政頼を越前へ追いやったり、頼芸の信任を得ていた長弘を殺害するなど、智謀を巡らして、徐々に土岐家での発言力を強めていく。 天文7年(1538)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、ついにその名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った(ぶっちゃけ斎藤を名乗ったのはこの時からでそれ以前は庄五郎や西村勘九郎と名乗っていた)。 後に利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となった。この時、38~48歳ぐらいだったと推測されている。 油売りで生計を立てていた出自不明の男が、30年かけてついに一国を我が物としたのである。 この頃には、そののし上がりっぷりと、内政に外交に巧みに生かされるその智謀の恐ろしさが美濃国外にも知れ渡っており、その狡猾さから「マムシ」「梟雄」と呼ばれて恐れられるようになっていた。 その後頼芸が尾張の織田信秀(信長のとっちゃん)を頼り美濃に進行してくるがこれを撃退。後に和睦して娘の帰蝶を信秀の嫡子信長に嫁がせた。 しかし1555年、突如息子の斎藤義龍に攻められ、今度ばかりは流石に勝てず戦死、享年63。 余談だが、彼の死後、義龍の子の斎藤龍興の代になって斎藤家は織田信長によって滅ぼされ、前後して斎藤道三の末子であった斎藤利治が織田信長の家臣となり、以後本能寺で倒れるまで信長の嫡子、織田信忠つきの重臣であった。 「わが子はいずれ信長の軍門に下るであろう」という道三の言は間違いでなかったと言える(義龍の器量云々はまた別の話ではある)。 長年にわたり、悪名高き戦国大名の代名詞としてマイナスイメージが強かったが、司馬遼太郎の小説「国盗り物語」などで、徐々に人気を獲得している。 近年では、美濃国の占拠は道三一代でのものではなく、彼の父親と共に行われた、親子二代の下克上であったという説が有力とされており、学界ではほぼ定着していると言ってよい。 というのも、この時代の近畿守護の手紙という第一級の史料の中から、そういった内容が確認されたからである(日本史研究において当時の手紙は最も有力な史料のひとつである)。 しかし、司馬遼太郎の作品をはじめ数多くの娯楽作品で彼の国盗り一代記が描かれてきたため、一般人の間では今なお従来どおりの人物像が広く知られている。 二代の下克上とはどういうものかというと、長井長弘の家臣になって頭角を現す辺りまでは、道三ではなく、その父新左衛門尉の辿った道であったというものである。道三の血筋は、新左衛門尉の代から既に妙覚寺の住職であったというわけだ。 道三はそうした父の子として、最初から武士として生まれた。長弘を討ったりといった国盗りの策略を巡らせる辺りからは、従来の説どおり、道三の活躍であったと考えられている。
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