小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。洗礼名アウグスティヌスを持つキリシタン大名でもある。 一時期は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役の際、加藤清正と先陣を争った。関ヶ原の戦いにおいては西軍の将として奮戦したが敗北し、切腹を拒否して斬首された。 永禄元年(1558年)、和泉国堺の商人・小西隆佐の次男として京都で[3]生まれた。 はじめ岡山の商人の家に養子として入り、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた[4]。織田氏の家臣・羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる[4]。 豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いた。天正13年(1585年)には摂津守に任ぜられ、また豊臣の姓を名乗ることを許される[5]。同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したいわれている。また一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。 天正13年(1585年)小豆島で1万石を与えられた[6]。 これに前後して、天正12年(1584年)には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる[5]。 小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している[5]。 天正15年(1587年)の九州征伐、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の南半国宇土、益城、八代の20万石あまりを与えられた。肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。その宇土城普請に従わなかった天草五人衆と戦いになり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定、天草1万石あまりも所領とする。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという[7]。 このころ天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。学校は後の文禄3年(1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオと合併し[8]規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。 行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたという。このほか秀吉の意を受け、水軍指揮と海外貿易の適地であった八代に麦島城を築城し(八代はルイス・フロイスが『日本史』で絶賛した土地であった)、重臣の小西行重を城代として配置した。このほか隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。このほか、高山右近の旧臣が多く家臣に取り立てられた。しかし、残りの肥後北半国を領した清正と次第に確執を深めることになる(後述)。
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